企画展

斎藤義重展

2003年5月17日[土] – 6月29日[日]

会期

2003年5月17日[土] – 6月29日[日]

※この展覧会は終了しました

休室日

毎週月曜日

観覧料

一般800円(640円) 大学生・高校生560円(450円) 中・小学生240円(200円)

※( )内は団体30名以上及び前売料金

主催
千葉市美術館、財団法人大原美術館

本展覧会は、斎藤義重(1904~2001)の生前より企画されていたものです。彼の死は、わが国の「戦後美術」と呼ばれていた時代が明らかに終わったことを感じさせるものでした。図らずも歿後はじめての回顧展となってしまった今回の展覧会は、彼の作品が二次元的な絵画を脱し、三次元の空間を獲得したことを内外に示した1984年の回顧展に続く大規模なものとなっています(千葉会場では約120点の展示を予定)。

本展覧会会期中に、斎藤の三回忌を迎えます。
しかし、ひとつの時代が終わったことをただ回顧するだけでは斎藤の遺志が受け継がれることはないでしょう。今回の展覧会では可能な限り各時代の作品を展示・紹介することで彼の造形思考が現在に持つ意味 -その可能性と限界- を来館された皆様に感じていただけるような展覧会構成を心がけました。一般の美術愛好家の皆様はもとより、アートを目指す若いひとびとには是非会場に足を運んで貰いたい、展覧会担当者として、そのことを切に願っております。

斎藤義重は、吉原治良(1905~1972)・山口長男(1902~1983)と並ぶわが国における戦後美術の開拓者です。斎藤をはじめとするこの三人を抜かしては、現在のわが国の美術の状況がどの地点から始まったかを語ることができませんし、彼らの造形思考は今もなお有効性を持ち続けています。おそらく、20世紀後半の日本美術を代表する存在はこの三人でしょう。
 斎藤・吉原・山口の三人のなかでもとりわけ、斎藤の場合その活動は他の二人と比較した場合、ユニークなあゆみを辿っています。

まだ中学生だった1920年代、岸田劉生の「麗子像」に感動した斎藤は美術を志しますが、岸田の作品に惹かれる一方でそのころ日本で紹介されたロシア未来派や村山知義の前衛美術の傾向に関心を持つようになります。30年代後半に本格的な制作活動を開始した時には同時代のヨーロッパの新しい美術思潮に影響を受けた作品から出発しましたが、間もなく時代を覆った戦争、そして戦後自らを襲った病のために長い沈黙の時期を送らなければなりませんでした(戦後の沈黙を千葉県の浦安で過ごしたことは良くしられたエピソードです)。

斎藤がふたたび画壇に登場し、本格的な活動を示すようになったのは1950年代後半のことです。彼はそれまでの時間を取り戻すように旺盛な制作・発表を行い、国内外で高い評価を得るようになりました。1970年代はじめ、戦災で失われた自作の再制作のなかから自己の造形が三次元の空間に展開するものであることを改めて確認した斎藤は、壁に掛ける「絵画」を脱した作品 -立体- の制作にはっきりと関心を向けます。この思索は80年代に入って結実しました。これは、あくまで壁に掛ける「絵画」の可能性を探求-拡張した吉原・山口のふたりと決定的に異なっており、斎藤のあゆみがユニークであるゆえんです。

また、斎藤の活動は後進を領導するものでもありました。その主な顔ぶれを上げれば、1950年代に活動したグループ「実験工房」の造形部門に集まった山口勝弘・北代省三をはじめ、60年代の美術状況に大きな影響を与えた高松次郎、続く柏原えつとむ、河口龍夫や60年代末から登場した関根伸夫、菅木志雄、小清水漸あるいは彦坂尚嘉、堀浩哉といったアーティストたちです。

斎藤と同世代に生き、近年語られることの多いアーティストが後進に与えた影響の多くは -斎藤以外では吉原の主宰した「具体美術協会」を除いて-、明確な造形思考に基づいたものではなく、結局は大正時代の白樺派にみられる人生訓に還元されるものであることに対して、斎藤は「美術(表現)とは何か」を客観的に検証しようとする作業によって後続の世代を挑発し続けていたのです。そして斎藤自身の活動が終生、注目された理由も彼のこの姿勢に由来しています。彼の存在は文学の世界で高橋和巳や中上健次たちに影響を与えた埴谷雄高と重なり合うかもしれません。

最後に、本展覧会は全国の主要な美術館の全面的な協力によって成立していることをつけ加えておきます。近年、戦後美術の作品も保存上の見地から巡回展のための長期貸出が困難になっております。今後もこの状況は厳しくなりこそすれ、緩やかになることはないでしょう。本展覧会が斎藤の全貌を知る絶好の機会であり、貴重であるゆえんです。

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